ククラとの出会い
「ボク、ボク。大丈夫?」
マパの耳に空高く天より女性の声が降ってきました。「ボク、ボク?」段々とその声は近づいてきます。声が耳元まで近づいた時、マパは夢から覚めるようにハッと目を開けました。その瞬間、若い女性の心配そうな顔がマパの瞳めがけて飛び込んできました。
「ボク、気がついた?」
その女性はホッとした表情になって言いました。マパはまだ虚ろな瞳で辺りの様子を伺っています。見たことのない物ばかりが目に映り込みます。この奇妙な景色もタトの木のお婆さんが見せてくれた映像の続きだと思いました。真っ白な壁の高層ビルが道路を挟んで林立し、その僅かな隙間から透き通るような青い空が見えました。とても綺麗な青空ですが、マパには何故か冷たい色に映ります。建物の間には帰る家のない子供のように寂しげな風が通り抜けていきます。マパの目に映るすべての物がさまよう風を無視して固まっており、その風に身をゆだねる物は何一つ見当たりません。
今までマパの感じてきた風とは 〜季節の変わり目や天気の変化を肌を撫でて報せてくれるおしゃべりな風〜 〜演奏のように木の枝が揺れ、落ち葉が舞い、雲が走る情景を目の中に放り込んでくる忙しそうな風〜 〜近くて遠い鳥の鳴き声や川の中で水と岩がすれ違う時にお互いの手を弾く‥それらの音を一つ一つ拾っていく丁寧な風〜 〜氷柱に触れた手でそのまま肌を遠慮なく触ってくる無邪気な風〜 〜滝が水面を叩いた時の香りを包み込むおっとりとした風〜 などのように全身に話しかけてくるものでした。しかし今感じている風は音もなければ匂いもない空虚なものです。
「お婆さんの夢じゃない!!」
高層ビルが立ち並ぶ塵一つない広い路地の端で、仰向けになったままマパは今見ている世界が本物であることに気がつきました。
「シャーラ、シャーラは?」
周りにシャーラの気配を感じません。体を起こしても、目に映るのは弱々しい風を容赦なく切り裂いていく自動車の姿でした。車体は宙に浮いていてかなりのスピードで上下左右不規則に往来しています。その数多くのカラフルな空飛ぶ車の動きにマパは目を回しました。
「ここはどこ?」
マパは女性に顔を向けるのも忘れた様子で言いました。
「ここはトンピピタウンよ。ボクはどこから来たの?」
質問には答えずマパはつぶやくように言いました。
「トンピピタウンって‥タトの木のお婆さんが教えてくれたトンピピ村のこと…?」
「そうね、昔はトンピピ村と呼ばれていたかもね。タトの木のお婆さんって近くに住んでいる人かしら?」女性は親切にマパの顔を見て応えてくれます。
「ううん、ここがトンピピ村ならタトの木のお婆さんはすごく遠くにいるよ。遠いって言ったらいいのかな‥?とにかくこの辺りにはいないんだ。でも、どうして僕はここに来ちゃったんだろう?」マパは首を傾げます。「・・・ 」
そしてマパは女性の顔をマジマジと見つめました。家族以外の人間との出逢いは初めてです。しかし周りの景色にはない温かいものをこの女性に感じます。マパは意を決して話しました。
「うまく言えないんだけど、僕、ダット父さんとナータ母さん、フルおじさんとスキアおばさん、それからヤビおじいさんとフィリおばあさん、そしてシャーラ以外の人に出会うのはお姉さんが初めてなんだ。」
女性は面食らった顔をしましたが、マパに対して運命的な出会いを直感すると気を取り直して尋ねました。
「タトの木のお婆さんは?」
「タトの木のお婆さんは人じゃないよ。フォストの森で一番大きな樹木だよ。」
「じゃあ、ボクは植物とお話ができるってこと!?」
普通の大人であれば子供の空想か悪ふざけと適当に話を合わせて立ち去るかもしれませんが、この女性は興味津々な表情になっています。
「ううん、タトの木のお婆さんと話せるのは僕じゃなくてシャーラなんだ。シャーラと手を繋げば僕にも森のみんなの声が聞こえるけどね。……… もしかして … 僕だけこっちの世界に取り残されちゃったのかなぁ …… ?」
マパの声が不安の色を帯びました。
「ボク、もし良かったらお姉さんにお話を聞かせてくれるかしら?何でも言って、力になれたら嬉しいもの。笑ったりバカにしたりしないから安心して話してほしいの。」
マパがゆっくりと頷くと、女性は手を差し出し握手をしました。出会った時から女性はマパに稀有な信憑性を見い出していました。女性の名前はククラと言いました。周辺では宙に浮くキックボードに乗って人々が空虚な風と一致するように往来していますが、誰一人として地面に座り込んでいる男の子と目線を合わせるようにしゃがみ込んでいる女性の存在に気づかない様子で、気付いた人さえ冷ややかな目で無関心を装います。そんな雰囲気を気に留めることなくマパはフォストの森で体験したことを精一杯分かりやすく話しました。タトの木のお婆さんの言葉も思い出しながら随所に使います。ククラも一言一句真剣に聞き取ります。マパの手を包んだ両手が汗ばんできます。
「信じるわ。」ひと通り話を聞くと探し求めていた宝物を見つけたような表情でククラはそう言いました。「マパはトンピピ世界とは違う所から来たってわけね。」
「うん、そうみたいだね。でも‥これからどうしたらいいんだろう‥ ?」
マパはぼんやり前を見つめます。
「さっきから思ってたんだけどあそこに見える黒い空間‥ あの場所にフォストの森があったのかなぁ。」
マパはビルとビルの間の向こうを指しました。
「見えるの!? マパにもあの空間が!!」ククラが驚嘆の声を上げました。「すごいわ!私以外に見える人がいるなんて!」
ククラは思わず握っている手に力が入りました。
「ククラ、手が痛いよ。」
「あ、ごめん。」ククラは手を離して謝ると人差し指を口の前で立てて言いました。「いい?マパ。あの空間は他の人には見えないらしいの。見えるのは私だけ。この話をするたびに変な目で見られてきたもの。」
人差し指を下ろしてひと呼吸おくと続けて言いました。
「そうか‥タトの木のお婆さんの説明で納得できたわ。私にしか見えない理由がよく分からないけど、マパにも見える‥。どうやらマパのことは他の人には任せられそうにないわね。残念だけどマパの話を信じる人はいないと思うの。とりあえず私の家に行って、それからどうするか考えましょう。心配ないわ、家には誰もいないしまだ聞きたいことも山ほどあるしね。」
マパはククラの厚意を素直に受け入れることにしました。トンピピ世界では帰る家のないマパにとってククラが唯一頼れる人になったのです。
トンピピタウンも季節は冬。コートを羽織った人たちはさらに透明な卵状のカプセルに身を包んだまま面白みのない無表情で去っていきます。キックボードに乗って往来する人々の腰辺りに小さな黄金色の箱がぶら下がっている事にマパは気づきました。よく見るとその箱は空中を行き交う自動車の後部にも小さく付いています。そして商品を宣伝するディスプレイが至る所に浮遊していて人々にその存在をアピールしていました。マパは体温を地面のコンクリートに奪われた様子で寒さに身を震わせました。ククラの家ではトンピピ世界ではもう珍しい暖炉が待っていると言います。早速二人は立ち上がるとククラの家に向かって踏み出しました。
その一部始終を高層ビルの屋上から双眼鏡が覗いていました。透明な双眼鏡です。いや、透明なのはそれだけではありません。双眼鏡を握る両手もその人物自体も透明です。彼が風の男でした。これほどスパイとして適した身体があるでしょうか?風の男は目をキラリと光らせると、流れ行く空虚な風に同化して二人の追跡を始めました。
その頃、六角家のベッドの上にもフォストの森から連れ帰られたマパの姿がありました。こちらのマパはもぬけの殻さながらに眠っています。家族全員が心配な顔でマパを取り囲んでいて、六角家そのものが沈んだ空気に包まれています。特にシャーラは今にも泣き出しそうです。
「心配いらん、大丈夫じゃ。マパは必ず帰ってくるわい、ウム。」ヤビおじいさんはタトの木のお婆さんと同じことを言いました。「マパは今魔法の力に目覚めておるんじゃよ。まだ自分でも気づいておらんようじゃがの。そのうち操れるようになれば再び目を覚ますわい、ウム。ただマパの魔法はちと高度なもののようじゃからの、少し時間はかかるかもしれん。大丈夫じゃ、心配いらんよ、ウム。」
皆を落ち着かせるように繰り返します。
「心配いらん、ウム。」
信頼できるヤビおじいさんの言葉が響き六角家の空気が和らぎます。一方、空っぽのままのマパを見ていると早く目覚めてほしい思いが溢れてきます。
六角家の窓の外ではチラチラと雪が降り始めました。