フォストの森とシャーラの魔法
六角家で大人たちが話し合いをしていた頃、マパとシャーラはフォストの森の西端に流れる沢にいました。そこは暖炉に使用する石を集めた場所でもあり、二人にとってお気に入りの場所でもありました。裏山の谷間から流れ出てくる沢水がフォストの森の平たい土地へと広がりを見せ、ちょっとした湿地をつくっています。湿地はどこも足首までの深さの水深で中央辺りには何種類かの膝丈まである植物が穏やかな水の流れを覆っています。湿地の縁をなぞるようにマパの背丈ほどの草が整列して並んでおり、その周辺を落葉の木々がゆったりと取り囲んでいました。空から見れば、湿地は森の真ん中にポツンと置かれた丸鍋の底のように一部開かれており、ふんだんに差し込む光は明るい空間を演出しました。湿地の端から中央にかけて草間を流れる清流を遮るように等間隔で岩が並んでいます。湿地真ん中の岩が一番大きく、二人がその上で横になることも出来ます。マパとシャーラはいつも湿地の浅瀬を通り岩から岩へと渡ってその一番大きな岩まで辿り着くと、まず鍋の底から見える景色を心ゆくまで楽しみます。それからマパは何か新しい発見はないかと岩の間を行き来したり、水草を掻き分けたりして冒険気分を楽しむのです。一方、シャーラはいつものようにじっと静かに周りの景色を楽しみます。自然と向き合う時には一人で対面しないと教えてくれない“秘密の喜び”というものがあるのです。マパもシャーラもその喜びをよくよく知っていました。大人たちはそれを“自然との対話”と言います。シャーラもマパもその対話は心に残しておきたい大切なことと心の片隅で感じ取っていました。まあ、二人にしてみれば大切だからというよりも、ワクワクドキドキする気持ちに素直なだけなのですが。
そして彼らはお互いが発見した“森の秘密”を教え合うという喜びの気持ちにも素直でした。秘密を発見した時のトキメキを分かち合うことで嬉しい気持ちが二倍にも三倍にも広がります。マパに至ってはシャーラの喜ぶ顔見たさに新しい発見を探すことさえありました。
その日マパは、湿地の淵に構えているフォストの森でも一、二番目に大きいタトの木に登っていました。大人五、六人が手を繋いでやっと取り囲める巨木の幹は根元ですぐに二股に分かれ、絡み合うように天に向かって伸びています。マパがはしゃいでもビクともしない太く丈夫な枝は横方に手を伸ばしており、湿地の中央にまで被さっていました。今の時期、そのタトの木には子供の握りこぶしほどの銀色の果実が鈴なりになっています。石のように硬く分厚い果皮は三つの部分に分かれ白色の果肉を包み込んでいます。その果実を焼くと果肉は皮を破って茶色に膨れ上がりその姿を露わにします。ホクホクに焼き上がった果実は味もパンそのものでした。かき集めた落ち葉と一緒に焼いて食べるのがテト家とロン家のこの季節の楽しみで、他では味わえないその味がマパもシャーラも大好きです。フォストの森に三本あるタトの木のうち、今マパが登っている樹は一番の長寿で果実も大きく弾力があって美味でした。本当はある程度冬風に耐え、枝から自然と落ちた果実が一番美味しいのですが、湿地に落ちて濡れてしまうと格段に味が落ちてしまいます。硬い割に吸水性が良いのです。ですからカムの実と同じように果実が枝から手を離す前にこうして二人で収穫に来たのです。
マパもシャーラも木登りは慣れたものでした。小さい頃はいろんな樹形の木に登っては自分で降りられなくなり、よくダット父さんやフル父さんに助けてもらったものです。
「木登りは気を抜いちゃダメだよ。慣れてきて、もう少しで地面っていう場所が油断して一番危ないんだ。見た目が太くて頑丈そうでも簡単に折れてしまう枝もあるからね。」ダット父さんの言葉が頭に残っているのかマパは決して気を抜くことはありません。しかし、その動きだけを見ると大胆で優雅にすら見えました。
「シャーラ、準備いい?」
両手で抱えられる太さの枝にまたがっているマパは頭上にぶら下がっているタトの木の実に手を伸ばし、大きな声で言いました。
「いいわ。マパ気をつけてね。」
シャーラも一番大きな岩の上でカムの茎で編んだカゴを用意して待っています。タトの木の果実も程よく熟し今にも湿地に飛び込みそうな気配です。マパはそれを一つ一つもぎ取るとふわりとシャーラに渡していきます。昨年もその前の年も二人でこうして収穫してきました。その甲斐あってか二人のタトの果実を受け渡しする呼吸はぴったりと合っています。
「シャーラ、今度のは大きいよ。」マパが声をかけます。
「ええ、いいわよ。」シャーラも油断なく構えます。
こうして二人で収穫をしていると焼き上がったタトの実の香ばしい匂いが漂ってくるようで思わず鼻をひくひくさせてしまいます。収穫後の楽しみはもちろん、今こうして息を揃えた時間を共有できる喜びに満足感が溢れます。時間そのものが二人のためだけに流れているようにさえ感じる貴重な時間でした。
「マパ、もう十分よ。終わりにしましょ。」
二つ用意した大きなカゴから果皮の銀色がこぼれそうです。
「わかった、じゃあ後ひとつだけ。」とマパはタトの実に手を伸ばしました。そして果実を採ったその時です。自然の小さな秘密はこんな所にも隠れていました。
「うわぁー。」マパは声を上げます。最後に手にした果実の奥の枝に、真っ白なキラキラ光る卵のようなものを見つけたのです。
「マパ、どうしたの?」動きの止まったマパにシャーラは問いかけます。
「シャーラ、上がっておいでよ。いいものを見つけたんだ。」マパが枝の間から嬉しそうな顔を覗かせて言いました。そのキラキラと細かく輝く白い卵のようなものが何なのかをマパは知りませんでした。正体不明というわけです。そこがマパの気持ちを一層ワクワクさせます。さらにマパの心には、それを見て自分と同じように興味を示すであろうシャーラの姿が描かれていきます。
「シャーラ、早く早く。」
枝の幹元まで戻ったマパは、すぐ下まで来ているシャーラに手を差し伸べて言いました。
「待って、すぐに行くわ。」
シャーラもマパが何を見せてくれるのか早く見たくてドキドキします。こうした時には早く答えを知りたいものですが、新しい発見は相手の導きに身を任せるというのがお互いの暗黙のルールでした。シャーラを前にして二人は枝にまたがったまま、馬跳びの要領でマパが果実を採っていた場所まで戻ります。
その時シャーラは一瞬耳鳴りを感じました。頭を軽く振るシャーラの肩越しに腕を伸ばしてマパが言います。
「シャーラ、ほらあそこ。」
マパの指差す方向に視線を向けるとシャーラの目の中に白地に星砂を散らした光が飛び込んできました。
「わぁー。」マパと同じようにシャーラからも思わず声がこぼれました。
「ねぇ、あれは何?初めて見るものよ。」
シャーラの視線はその枝先に置かれた純白のものに釘付けです。
「僕にも分からないんだ。シャーラはどう思う?」
シャーラは目線をそのままにして答えます。
「何かしら‥ラビ鳥の卵じゃないし‥」
「うん、僕も鳥の卵かなって一瞬考えたけど、ラビ鳥の卵って薄茶色に白の斑点だし今は産卵の季節じゃないしね。」
ラビ鳥は一年中フォストの森で過ごしています。子供の手のひらにすっぽりと収まるほどに小柄で地味な色合いの羽ゆえに鳴き声が聞こえてもその姿を見ることはなかなかできない野鳥です。
春先に木の枝先の不安定な場所に小枝や枯れ草で筒状の巣を作り、三つから四つの卵を産みます。秋も終わりになってくる今頃は餌を確保するために二十羽ほどの集団を作って行動しているはずです。姿の見えない鳴き声が塊となってフォストの森を移動していきます。
「そうよね。」シャーラは頬に手を当てて言いました。「この季節に卵を産む鳥っているのかしら?」
「さあ、いないんじゃないのかな?仮に鳥の卵としても巣がないのは変だよ。一つだけポツンと枝に乗ってるなんて。」
二人は再び考えます。今までにフォストの森で観てきたもの、大人たちから教わってきたことをできるだけ鮮明に思い出して、目の前の白いものに照らし合わせてみるのですがどれも当てはまりません。ただただ二人の耳には森の静寂した空気の音が流れ込んできます。
その時です。シャーラは再び耳鳴りを感じました。
「サァーサァー ザッザッ ・・・ヒ、ヒント サァー ザワッ‥。」
お婆さんの声のようにも聞こえます。
「サァー シャッ、シャーラ・・・。」
微かに自分の声が呼ばれたような気がしたシャーラは辺りをキョロキョロと見回しました。しかしマパ以外に自分の名前を呼びそうな人は見当たりません。
‘’バチッ!‘’今度は耳の奥で音が弾けました。すると次の瞬間、雑音がはっきりとした人の声に変わったのです。
「シャーラ、シャーラや。聞こえておるかの?」
お婆さんのしわがれ声です。
「誰!?」
聞き覚えのない声にシャーラは驚いて左右を見渡しました。
「何?シャーラ。」マパが言います。
「今、お婆さんの声がしたでしょ?」シャーラは視線をあちこちに飛ばしながら応えました。
「えっ?お婆さんの声?フィリおばあさんのこと!?」
シャーラはマパの問いに首を振ります。
「ううん、フィリおばあさんの声じゃないわ。初めて聞く声よ。今、私の名前を呼んだの。」
「そんな声聞こえなかったよ、シャーラ。きっと気のせいだよ。」
マパは妙にソワソワして落ち着かないシャーラに優しく声をかけました。
「ほら!聞こえる。」シャーラは耳をそばだてます。
「シャーラ、こっちだよ。後ろをごらん。」
しわがれ声の誘いのままにシャーラは後ろを振り向きました。それがあまりに唐突だったのでマパはまたがる枝から落ちそうになり反射的に体を反らせます。
「シャ、シャーラ、危ないよ!急に振り向かないでよ。」
しかしシャーラはマパの強い口調もまるで耳に入っていない様子で大きく目を見開きました。そしてその瞳はすぐに輝きを見せます。
「マパ、後ろ、後ろ見て!」
シャーラは指を差して言いました。マパはシャーラの言う通り後ろを振り向いてその先を凝視しますが、シャーラの言いたいことがよく分かりません。
「マパ、見えないの?ほら、あそこ!」
シャーラは肩から指先までピンと腕を伸ばしてさらに強く差し示しました。
「シャーラ、指をささないでおくれ。マパには私の姿は見えないんだよ。」
シャーラにはタトの木の幹に目と口がくっきりと浮き出たしわしわのお婆さんの顔が見えていたのです。シャーラはタトの木のお婆さんの言葉にハッとして指していた左手を右手で覆い胸の中に埋めました。
「ごめんなさい。あまりにびっくりしたものだから‥。」
シャーラが申し訳なさそうに言います。
「いいんだよ。やっと私の声が聞こえるようになったね、シャーラ。」
いたわり深いしわがれ声です。シャーラの理解できない言動に少し不安になってきたマパは腫れ物に触るように言いました。
「シャ、シャーラ‥‥どうしたの?」マパには状況が理解できません。
「シャーラや、マパと手をつないでおやり。そうすれば私の姿が見えるはずだよ。」
シャーラはお婆さんの近く、二人がゆったり座れる枝までマパを誘導すると言いました。
「マパ、驚かないでね。」シャーラはマパの手を取ります。「そのままゆっくり幹を見てくれる?」
マパが驚いたのは言うまでもありません。仰け反った勢いでそのまま後ろに倒れたくらいですから。
「どうだい?マパ、見えたかい?」
しわしわの顔が微笑んでいます。マパは体を起こし言葉が見つからないといった風にタトの木のお婆さんの顔を見つめました。
「そんなに変なものを見るような目を向けないでおくれ。私たち樹木が話をしたらおかしいかい?ふふ・・どんな生き物も命の種を持っているんだから変わりないんだよ。そんなに驚かなくても・・ふふ。」
タトの木のお婆さんも“命の種”という言葉を使います。今までシャーラはフォストの森で樹木や草花、鳥や虫や‥出逢える生き物とはゆっくりと会話をしてきました。だたそれはシャーラの心の中に生き物たちの気持ちが響いてくるというだけで、思い込みと言われても否定できないものでした。しかし今ははっきりと声が聞こえるのです。
「今日は私たちの声がシャーラに届くようになっためでたい日だよ。ふふ、お二人さんには話しておくことが山ほどあるんだ。今日はゆっくりしておいで。」
タトの木のお婆さんの顔に流れるシワが嬉しそうに揺れています。
「メデタイ! メデタイ!」
いつの間に集まったのか、タトの木の枝という枝でラビ鳥の集団をはじめ、何種類もの鳥たちがさえずっていました。鳥だけではありません。フォストの森中の生き物たちがタトの木のお婆さんを幾重にも取り囲んでどよめいています。
「シャーラが魔法に目覚めたそうだよ。」
「タトの木のお婆さんの声が聞こえるみたいだ。」
「ぼくたちの声も聞こえるのかな?」
「私もシャーラとおしゃべりしたい!」
「まあ!」あちこちから湧き上がる声にシャーラは驚嘆の声を上げました。
辺りをぐるりと見渡すと馴染みの深い姿から初めて目にする姿まで、ありとあらゆる生き物たちがシャーラとマパを確認するように隣同士でささやき合っています。その一匹一匹、一頭一頭、一羽一羽の声がはっきりと聞いて取れるのです。シャーラもマパも驚きと興奮でお互いを握る手に力が入ります。
「みんな静かに。大丈夫、みんなの声もシャーラにはちゃんと聞こえているよ。」タトの木のお婆さんの声が森中に響きます。「これからね、シャーラとマパに大切な話を始めるところでね、みんなも静かに聞いておくれ。」
“秘密”の扉が開かれます。