マジックボックス
元の世界と元の場所
それは見渡す限り奥深く、淡く青黒い空間でした。どこから放たれているのか青白い光がボーっと遠慮気味に闇の間を漂っています。マパとシャーラはどこからともなくその様相を眺めています。その感覚は二人の気持ちだけがプカプカとその場に浮いているようでした。いや、実際にそうだったのでしょう。今この場所に自分の体の存在は感じられず、二人がいるはずの樹洞の中とも思えません。マパとシャーラは樹洞の入口が閉じていく時に二つの光を感じました。それは入口に押し縮められる外からの光と樹洞の闇に追い出されていく内側からの光でした。二つの光は口が閉じる最後の瞬間、一点に集約されるとマパとシャーラの身体を射抜き二人の意識をどこかに持ち去りました。そして再び気がついた時、今見る世界に意識だけが浮かんでいたのです。
「シャーラ、大丈夫かい?」
それはマパの声でした。闇に吸い込まれていく声はいつもと違う印象が残ります。
「ええ、マパね。ここはどこ?」シャーラの声も闇の中に消えゆきます。
「分からない、いったいどこなんだろうね。」
二人はお互いの姿を見ることができませんが、手を握り合っているようにすぐ隣に存在を感じることはできました。見えない気持ちを支え合わなければ、時間まで凍てついたようなこの空間では自分の存在すら消えてなくなりそうになります。その感覚に不安を覚えると同時に、不思議なくらい切なく懐かしい気持ちが二人の心を締めつけました。
「シャーラ、マパ。」
タトの木のお婆さんの声が響いてきました。しかしお婆さんの気配は感じられません。
「タトの木のお婆さん、どこにいるの?」
ややもすれば自分の声も掴みきれない雰囲気の中、シャーラは精一杯遠くに向けて言いました。
「心配しなくてもいいんだよ。私はマパとシャーラをしっかり捕まえているからね。肩の力をお抜き。」
タトの木のお婆さんの声は天から降ってくるようでした。二人の不安もその声が洗い流してくれ、安心してこの空間に身をゆだねることができました。
「シャーラ、マパ。今お前たちがいるところはね、フォストの世界とは全く別の世界なんだよ。フォストの森やその星はね、お前たちが産まれる前にはここの世界にあったんだ。その証拠をこれから見せてあげるとしよう。」
タトの木のお婆さんのしわがれ声が土にしみ込む雨のように二人の心に浸透していきます。すると青黒い空間の中に一点の光が灯りました。とてもか弱い光で近くにあるのか遠くにあるのかさえ分かりません。同じような光が他の場所でも瞬き始め、あちこちに無数に広がります。光に強弱の差が生まれ、大きさにも微妙な変化が見て取れます。そして奥深い遠方からはゆっくりと青白い光のカーテンが押し寄せてきました。その波はとても柔らかな光のため散らばって瞬く光たちも存在を主張し続けることができています。気がつけば辺りは優しい光に包まれて、青黒い闇は遠く後方に消え去ろうとしていました。
「もう少しでフォストの森の故郷が見られるからね。」
フィリお婆さんの声が合図かのように視野の半分を覆うほどの真っ黒で巨大な曲面が遠方から出現し、その弧の向こう側から今度ははっきりと明るい青白い光の帯が昇ってきました。あまりに壮大な眺めのため、光が動いているというよりも自分の視界そのものに飲み込まれそうな遠心の力を感じます。そしてマパとシャーラの視野には目が覚めるように青く美しい星とフィリおばあさんの話では何度も耳にしていた巨大な光の星パメルの姿が飛び込んできました。
「うわーっ。」
マパもシャーラも思わず声が上がります。もちろん初めて体験する眺めで、もしタトの木のお婆さんが導いてくれなければ二人には想像すらできない景色でした。
「マパ、シャーラ、よいか。この青く美しい星がフォストの森の故郷であり、帰るべき“家”なんだよ。お前たちの住んでいる星はね、今見ている世界の部分部分を寄せ集めて作られたものなんだよ。」
タトの木のお婆さんが喋る一方で、目に映る展望はどんどん変化していきます。それは青い星にどんどん近づき一瞬霞をくぐり抜けたかと思うとぼんやりしていた地表の様子を鮮明に映し出しました。青色模様に見えていた星の外観も顔を近づければ緑色や黄色、赤色に茶色など多様な変化に富んでいることがわかります。
「マパ、シャーラ、あちらをよーく見てみなさい。」
指をさされたわけでもないのにタトの木のお婆さんの声は二人の視線を的確に意図する場所に導きます。そこには緑一色の地表が見えました。すぐそばには虹を凝縮したような色合いの農地や民家が点在しています。緑色の部分は森となっており、その一部にポッカリと円く黒い穴が空いています。
「あの黒い穴が見えるかい?実はね、元々フォストの森はあの場所にあったんだよ。今見ている景色はね、その森をフォストの世界に移した直後の眺めなんだ。」
光景は地表を右方に移動していきます。すると他にも円く黒い穴が周りの色から浮き立つように方々に見られました。
「あの黒い箇所は、お前たちが“スィル”と呼んでいる“海”があった所で、こっちはユミ沼だね。お前たちは知らないかもしれないが、フォストの森から北西の奥地にあるノキ滝はその左に見える場所から運び出したもので、六角家から見える北山はあそこで優美にそびえてたんだよ。」
タトの木のお婆さんは次々にフォストの世界の地形と目の前の円く黒い穴をパズルのように言葉で当てはめていきます。気がつくと地表を移す景色は星を一周しフォストの森があった最初の位置まで戻っていました。
「お前たちの星はこれらの寄せ集めで作られているんだよ。そして上を見なさい。」
上と感じる方向には眩しいばかりに輝くパメルの姿がありました。そのスケールの壮大さにマパとシャーラはフォストの世界で毎日拝んでいる光の星クリルが子供のように思えました。
「パメルの左上を見てごらん。」
二人は眩しさをこらえてそこを見ました。陽炎のためにぼやけていますが、意識の中で目を細めると地表で見たものと同じ円くて黒い穴がネズミのかじり痕のようにパメルを削り取っているのが分かります。
「もう分かるね。」タトの木のお婆さんが言いました。
「クリルはあそこにあったの?!」マパが声を上げます。
「信じられないわ‥」シャーラは手で口を覆ったような声を出します。
「どうだい、少しは理解できたかねぇ。」
その雄大なパノラマを目の前に“フォストの森は家出をしている迷子“というタトの木のお婆さんの表現が二人にも理解できました。しかし、なにぶん考えたこともないその事実に分からないことは山積みです。
「どうやって運び出したの?」マパが尋ねます。
「どうしてフォストの世界を作らないといけなかったの?」シャーラもすかさず尋ねます。
「まあそんなにあわてないでおくれ。千四年生きてるとね、語る事が多くてね。少しずつ話していくから待っておくれ。」
マパとシャーラのはやる気持ちとは裏腹にタトの木のお婆さんはゆっくりとしわがれ声で話します。
「最初の場所を見てごらん。フォストの森があった場所の周りにね、いくつもの家屋が見えるだろう。そこは一つの村なんだよ。この星にはそれはそれは 数え切れないほどたくさんの村があるんだけれどね、今見ているその村は“トンピピ村”と言って‥ お前たちの家族‥つまりダット、ナータ、フル、スキア、それにヤビにフィリ‥ 彼らはみんなトンピピ村の住人だったんだよ。」
「父さんたち、この星で暮らしてたの!?」
マパが驚きの声を上げました。
「そうなんだよ。私はね、ダットやフルはもちろん、ヤビもフィリも子供の頃からよく知っててね。あの子たちはよくフォストの森に遊びに来てたからね。」タトの木のお婆さんは呼吸を一つ置いて続けます。「この星には村の数なんて比較にならないほど多くの人間が根を張って暮らしているんだがね、ヤビやダットは他の者たちとはちと違うところがあるんだよ。」
「何かしら?」
「何だと思うね?それは今のシャーラと同じことさ。マパ、シャーラ。こうして樹木である私と会話ができることをどう思うね。」
「わたしは樹木や草花や生き物とお話しするのが大好きだから、みんなの声が聞こえるような気はしていたの。でも、こんなにはっきり聞き取れるなんて‥とても驚いてるわ。突然の出来事だったし‥だけど、もう大丈夫。タトの木のお婆さんのお話を聞けてとても嬉しいもの。」
シャーラは堰を切るように答えます。
「ふふ、シャーラ、私も嬉しいよ。急に聞こえるようになったのはね、シャーラの力が目覚めたからなんだよ。ダットたちはその力を“魔法”と呼んでいるがね。そしてね、ダットもナータもフルもスキアもヤビもフィリも、みんな魔法が使えるんだ。」
「父さんたちもタトの木のお婆さんの声が聞こえるの?」
「いや、いや、“魔法“と言っても皆それぞれが違う力なんだよ。ダットは物を移動させる魔法、ナータは方向のわかる魔法、フルは物を作り上げる魔法にスキアは生き物の気持ちが色に見える。ヤビは智慧の深い魔法でフィリはお前たちもよく知っての通り何でも物語にできる魔法さ。」
「そう言えば、ヤビおじいさんは何でもよく知っているし、フル父さんは物を作るのが上手だわ。でもそれが魔法だなんて‥。」シャーラが言いました。
「うん、僕もお父さんたちが魔法を使うところなんて見たことがないけど‥。」
「それはね、ヤビの教えでね魔法の力を過信しないということを守っているからさ。あとトンピピ村にいた頃に比べると彼らの力は随分と弱くなっている。フォストの森を『どうやって運び出したの?』ってマパは言ったねぇ。その答えは、ダットたちみんなが魔法の力を合わせて新しい世界を作り出したってことさ。生きていくために必要な物をトンピピ世界から移したってことだよ。フォストの世界には何もなかったからねぇ。様々な地形を次々と運び出したんだ。そうしてマパとシャーラの暮らしているフォストの世界が出来上がったのさ。どんなに魔法が優れていてもね、とんでもなく力を消耗することだったから移すものは最小限に厳選されてね‥それを指示したのはもちろんヤビだよ。あの子たちの中で1番の物知りだからねぇ。そんなだから、みんなが精一杯の力を合わせて全ての地形を移し終えた時には魔法の力も使い果たしていてね‥特にダットとフルは自分の能力以上に頑張ったからね‥マパ、これで少しは分かったかねぇ。」タトの木のお婆さんはマパの返事を待つ事なく続けて話します。「そして次はシャーラの質問だね。お父さんたちはなぜフォストの世界を作らないといけなかったのか‥と言うことだねえ。それにはまずこの二人のことを教えないとね。」
とタトの木のお婆さんが言うと、トンピピ村の森の緑を背景にして二人の若い男性と女性の姿が映し出されました。マパもシャーラも初めて見る顔です。
「この二人はね、ドポドとロザータと言ってね、ダットたちととても仲が良かったんだよ。この子たちも魔法が使えてね、どちらも気立てのよい素直な子だった。特にロザータは面倒見の良い子だったね。」
タトの木のお婆さんの言葉が表すとおり、空間に映し出された二人の顔からは温和な性格を感じます。
視覚に入る二人の様相はどうやらタトの木のお婆さんの記憶をもとに描き出された世界のようです。お婆さんは続けて皆が魔法に目覚めた時の様子やヤビおじいさんとの出会いを聞かせました。
「ヤビとフィリの家はフォストの森の外れにあってね、何の問題もなく時は流れていた。ヤビとフィリがうまく皆を導いていたからねえ。けれど悲劇ってのは突然にやってくるものさ。何が起きたかって? それはね‥ドポドとロザータの身に異変が起きたんだよ。二人の魔法の力がね、急激に強くなったのさ。それはダットたちの魔法とは比べ物にならないくらい凄い力になってしまった。二人の力が膨れ上がった瞬間、トンピピ村の空気はどよめき身を引き裂かんばかりの緊張が走った‥ 今でもよく覚えているよ。二人はしてはならない何かに手を出したんだろうね‥ 問題はね、魔法の力が増したことではなくてね‥ その強大な力と引き換えたかのように二人の性格がガラリと変わってしまったことなんだよ。あれほど温厚だった二人がね‥ 早速ダットたちを捜し始めた。おそらく自分たちの支配下に置きたかったんだろうねぇ。だけれど誰一人として見つけることができなかった‥それはヤビが全てを見通していたお陰なんだよ。森全体に異様な緊張感が走った瞬間に、ドポドとロザータが何をしてしまったのか、この後二人がどういう行動に出るのか、ヤビには分かったんだね。すぐにダットたちを集めて二人から身を遠ざけたのさ。ヤビの先見の目とナータの方向の力を使えばそれは難しいことではなかった。ドポドとロザータはトンピピ村の隅々まで捜したみたいだがね‥不利な鬼ごっこに諦めをつけたのか二人も急に姿を消したんだよ。今思えばフォストの世界のように別の時間と空間を作って移動したんだろうねぇ。それから間もなくトンピピ村に黄金色の箱とガチガチ頭の男が現れた。これはドポドとロザータに関係があることと私はすぐに睨んだね。ヤビも気づいたよ、その箱の危険性にもね。」
タトの木のお婆さんのしわがれ声が苦々しく音を立てます。
「その黄金色の箱って何なの?」マパが尋ねます。
「これまた簡単に言ってしまえば何でも取り出せる魔法の箱さ。村の人々はマジックボックスとか言ってたねえ。何でも出せて捨てられる‥まあドポドとロザータの魔法の能力を考えれば、そんな箱を作るのもたやすいことかもしれないね‥マパもシャーラも近いうちに実物を目にすることになるだろうよ‥確かに便利な箱には間違いないからね、あっという間に世界中に広まったのさ。だけれどね、便利の裏には恐ろしい秘密が隠されていたんだよ。その秘密に気づいたのは世界中でヤビ一人だけだった。」
マパとシャーラは息を飲みました。タトの木のお婆さんは止まらず話します。
「と言うのもね、マジックボックスから物を取り出すためには透明な粒が必要なんだよ。それも“コフェ”とか言ってたねえ。それは何だと思うね?マパ、シャーラ …それはね、“命の種”そのものなんだよ!ああ、形を持たない命の種が粒状になっていると言うのはね、おそらくロザータの魔法が絡んでいるんだね。人々はブルティックという黄金色の棒で生命あるものから命の種を取り出しては、マジックボックスから出てくる品物と交換している‥これがどういうことかはよく分かるね?」マパとシャーラは頷きながら固唾を飲みます。「当然、生き物の命の種は減っていくねえ。それは命の掟に逆らうこと… ゆっくりと時間をかけて蝕んでいく… 何もかもをね… 気づいた時にはもう遅いのさ。いや、トンピピ世界の人々にはもう気づきの力はないのかもしれないねぇ。マジックボックスの魔力なのか、それとも人々の欲望がそうさせたのか、とにかく心の黒板を白紙に戻すことができなかった。
一度書き込んだ“マジックボックス”って文字を消すことが怖いんだねえ。かと言ってドポドとロザータの前ではダットたちの魔法なんて赤子同然だからねえ。仕方なくヤビはフォストの世界に身を潜めて今までずっと機会をうかがってきたのさ。その希望の一つがマパとシャーラ、お前たちだよ。」
「僕たちが?」マパが声を上げました。
「そうだよ。お前たち二人の魔法が扉を開く鍵になるだろうね。実際シャーラはこうして私たち生き物の声を聞くことができる能力に目覚めた。マパの目覚めももうすぐ来るね。」
「僕も魔法が使えるの?タトの木のお婆さん!」
「ああ、使えるとも。」
「どんな魔法なんだろう?」
「それは目覚めてみないと分からないことだね。いずれにしてもその時はもうすぐさ。」
「でも、でもね、タトの木のお婆さん。魔法で一体何をしたらいいの?」
シャーラが不安そうに尋ねます。
「時が来れば自然に分かるさ。心の奥底に生まれる気持ちとじっくり向き合ってそれを大切に扱うことだね。シャーラ、マパ、憂えることはないんだよ。私たち森の生き物はみんな二人を見守っているからね。」
とタトの木のお婆さんは心に残る声で言いました。背後からは生き物たちの励ましや応援の声が温かい色に乗って聞こえてきます。そのつながりの声が二人に心地良い開放感を与えてくれ、重々しく感じていた不安を少しずつ取り除いてくれました。
そうこう想いを巡らせているうちにトンピピ世界の景色は真っ黒な闇に吸い込まれ、いつの間に樹洞から出たのか二人はタトの木のお婆さんの太い枝の上で手を繋いだまま横たわっていました。樹洞に入ってからかなりの時間が経過したように感じますが、クリルの高さから察すると外の時間はほとんど流れていないようです。
「シャーラ、またおいで‥。」
タトの木のお婆さんが眠そうに言いました。幹に浮き出ている細い目はすでに半分閉じています。二人に見せる不思議な情景を創り出すことに多くの力を費やしたのです。それは森の生き物たちも同様で、彼らもお婆さんに添えていた力を相当に消耗していました。すでに辺りにその姿は見られず各々の寝床で眠りについているようです。タトの木のお婆さんは口だけをモゴモゴと動かすと言いました。
「シャーラ、マパのことは心配しなくても大丈夫だよ。魔法に目醒めているだけだからね‥」
シャーラはその言葉の意味がよく分りませんでしたが、マパに視線を向けるとまだ意識が戻っていないその姿が見て取れました。
「マパ、マパ、起きて!」
肩を揺さぶりますが目を開ける気配がありません。シャーラは異変に気付きました。マパの存在自体が感じられないのです。慌てて両肩を揺さぶり懸命に声をかけましたが、やはりマパは起きません。
「タトの木のお婆さん!マパが目を覚まさないの!」
大きな声で叫びます。しかしタトの木のお婆さんからも返事はありません。
「タトの木のお婆さん!ねえ、起きて!」
シャーラは太い樹まで駆け寄って力一杯幹を押しましたが閉じた目が再び開くことはありませんでした。一瞬マパの方を振り返ったシャーラは意を決したようにタトの木を降り、六角家へと走り出しました。タトの木のお婆さんが「マパのことは心配しなくて大丈夫」と言ったとはいえ、シャーラの体は走りながら震えています。
シャーラが走り去った後、タトの木の枝はゆっくりと動き始め真下にある大きな岩にマパの体を寝かせました。
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